がん患者の痛みや苦しみを軽くする有効な治療法が開発され、WHO(世界保健機関)が推奨しているのですが、麻薬を反復して使う治療法であることから古い考え方の医師が日本にはまだ多いようで、津々浦々に普及するに至っていません。こうした状況改善のため、がん対策基本法(2007年4月施行)は、早期から痛みなどを緩和する治療を実施して、患者さんの療養生活の質を改善するよう指示しました。
がんは身体の病気ですが、患者さんの心身両面にとり大きなマイナス因子となるのが、がんの痛みで、多くのがん患者さんに発生し、いつまでも続くのが特徴です。この痛みを治療により緩和すると、心の苦しみも小さくなり、患者さんの日々の生活内容が改善します。痛みをすべて除去する治療が重要です。私は1982年以来、WHOの委員として対がん政策の見直し作業に参画し、がんの痛み治療法や緩和ケアの国際的な普及活動に従事してきました。現在世界共通で使われているWHOが示した治療指針の概要を解説し、日本での普及をさらに強化する必要性を強調したいと思います。
画期的なWHOの勧告
従来のがん対策の柱は、予防・早期発見・効果的がん治療の3つでしたが、WHOの勧告により第4の柱として痛みの治療と緩和ケアの実践が加わりました。
痛みや辛さを除去する緩和ケアの全世界的な普及にはかなり大きな指導力が必要であるとの観点から、普及運動は国連の保健専門機関であるWHOが主導することになったのが1980年代で、その第一段階としてWHOがん疼痛救済プログラムが策定され、現在は幅を広げ、緩和ケアプログラムとなっています。
これまで医師の多くは痛みとはひとつの症状にすぎない、症状よりも病気を治すことに力を入れたいと考えていましたから、患者さんはがんも治らないし痛みもとれない状態に陥り、人生の最期の日々が悲惨なものになり、あるいはがんが治っても痛みが残り苦しんだこともありました。
このような状況を改善したいと心あるイギリスの先覚者たちが鎮痛薬の使用法を工夫し始めたのが1960年代でした。それがモルヒネを繰り返して使う治療法として確立したのに、他の医師は麻薬を繰り返し使うからとそれを無視したので、普及しませんでした。がんの痛みをすっかり取る方法は他にないため、この治療法の普及の先導にWHOが立つことになり、「世界のすべてのがん患者の痛みからの解放」を旗印に掲げ1982年から活動を開始し、世界中の知恵を集約してどの国でも使える治療指針をまとめ「がんの痛みからの解放」という本を出版し、その本の中で「WHO方式がん疼痛治療法」(日本語版は金原出版が発行)という治療法を公表し、その実施を加盟各国に勧告し、世界全体のがん医療に大きな変革をもたらすことになったのです。
WHOは、この普及には3つの柱が必要と勧告しています。国の政策の確立、医療従事者と市民の教育、麻薬指定の鎮痛薬(オピオイド)を使いやすくする規制条件の緩和策です。こうした政策の見直しは日本では平成の初期から行われ、麻薬取締法などの法律が改正され、治療用のモルヒネが使いやすい規制に改正され、その後は医療目的のモルヒネ年間消費量が増え続け、過去20年間で約100倍になりましたし、モルヒネと同類のオキシコドンやフェンタニルも導入されました。また。医師をはじめとする医療従事者対象のがんの痛み治療法の教育活動も始まりました。
モルヒネの医療目的のモルヒネの年間消費量が、その国のがんの痛み治療の水準を示す国際的指標と考えられています。アメリカは日本の約2倍の人口の国ですが、モルヒネの消費量は日本の15倍であり、さらにオキシコドンを合わせると50倍くらいの量を医療で消費しています。日本は世界の最先進国でありながら、そのモルヒネ、オキシコドン、フェンタニルの消費量の合計を人口あたりでみると最先進国の中で最少の国なのです。しかも日本人の死因の第1位はがんですから、多くの日本人ががんと縁のある生活を送ることになるはずですし、かなり高率に痛みに苦しむことになるはずです。みなさんも将来に備えて、今のうちからがんの痛みの治療法の存在を知り、それをきちんと実施してくれる医師を見つけておくようお勧めします。
WHO方式がん疼痛治療法による治療成績
WHOが治療指針の準備中の頃、日本人がん患者の痛みにどのくらい効くのか試行して欲しいと私がWHOから依頼されました。そこで1982年から84年にわたり約200人の日本人がん患者の痛みの治療をWHO方式治療法によって行いました。その結果、86%の患者さんの痛みが消え、11%の患者さんの痛みが非常に軽くなりました。このすぐれた成績を得るのに80%の患者さんではいずれかの時期にモルヒネを使う必要がありました。
この日本人患者さんでの治療成績は、イギリスのがん患者さんにおける治療成績と同じ%であったことから、これなら世界中に受け入れられるとWHOを勇気付けた治療成績でした。しかし、この治療法の普及活動が盛んに行われてきているのに、現在でも日本でのがんの痛みの治療成績の改善は不十分なのです。医師が怠慢であると言われても仕方がない低調さです。この改善は急務です。がん対策基本法に基づく諸政策の中では、がんの診療に当たる医師全員が、痛み治療のノウハウの研修を受けさせる計画が立てられています。
痛み治療の阻害因子
医師が痛みは病気が示すひとつの症状にすぎないと軽視してしまうこと、市民も医師も治療に麻薬を使うことをためらうこと、痛いというと恥ずかしいと思う患者さんがいることなどが痛み治療普及の阻害因子です。がんの痛みは、本人が「痛い」と言わないと他の誰にも気付かれない症状なのです。
先進国並みの水準でがんの痛み治療ができるようにするには、医師への教育を強化することに病院長など医療施設の責任者や医療教育者がリーダーシップを発揮することが重要ですし、医師・薬剤師・看護師等のチームワークを強化することも大切です。病院の玄関ホールに「痛いときは痛いと言って下さい、がんの痛みは必ずとります」と掲示し、患者さんに痛みは消すことができると伝えていくことも重要です。
がんの痛みの特徴
がんの痛みは強い痛みが多く、しかも長期間いつまでも持続します。そのため夜眠れない、食べる気にならない、不安が募り、心が落ち込む。はじめのうちは軽い痛みであってもその80%はいずれかの時期に必ず強い痛みに変わってきます。そんな痛みは心理社会面やスピリチュアルな面の悩みも構成因子とするトータルペイン(全人的な痛み)と理解されており、すっかり消してしまうことが肝要です。
本人が「痛い」と言葉に出さないと他の人に気付いてもらえないので治療がはじまりません。そんな特徴を持つがんの痛みですが、その大多数には痛み止めの薬がよく効くのです。少数ですが、痛みによっては鎮痛薬があまりよく効かない場合がありますが、鎮痛補助薬という薬を鎮痛薬と一緒に使えばよく効くようになります。
痛みの診断と治療の目標
がんの痛みを治療するには治療目標を設定し、その目標を患者さんも理解していてこそ成果があがります。痛みが消えた状態が維持されて日常生活が平常に近づくことが治療の最終目標です。まず初期には痛みに邪魔されずに夜間はよく眠れるようにすること、次いで昼間静かにしていれば痛くないようにすること、そして最後に身体を動かしても歩いても痛くないようにするのです。痛みが軽くなればいいという程度の目標で治療を始めたのでは、痛みがすっかり消えることはなく、患者さんは痛みの恐怖と不安から解放されることはありません。
20年前ですが、目も開けられないほど強い痛みに耐えている患者さんが私の病院に運ばれてきました。この患者さんは手術できないほど進行した胃がんと診断され、強い腹痛に苦しんでいました。モルヒネを1日60mgと少量からのみはじめ、効き方をみながらだんだん増量していき1日
270ミリグラムをのむようになったとき痛みが消え、明るい表情を取り戻しました。患者さんの家族が「お父さんが普段の顔つきになった」と喜びましたが、がんが相当悪かったので4週間後にお亡くなりになりました。しかし、たとえ4週間であっても、痛みがなくなり明るい毎日を過ごす姿は家族によい思い出として残しました。
当時の日本薬局方では60ミリグラムがモルヒネの極量とされていましたので、それ以上の投与がしにくかったのですが、そんな治療の邪魔となる条項は厚生省(当時)により平成2年に削除され、痛みに使うときの薬の量は主治医の裁量に任せ、今では必要なだけの量を制約なしに使えるようになっています。
痛みの診断
痛みを訴えた時に主治医は痛みについて診断しますが、まず痛みを薬で和らげてから本人によく話を聞き、痛みの強さや性状、身体、心、社会的背景などについても聞き、患者さんの身体を診察すれば、痛みの原因が推定でき、CTなどの諸検査が必要なことは少ないのです。診察したらすぐに痛みの強さに相応した効力の鎮痛薬を選んで使いはじめます。
鎮痛薬の使い方の原則
WHO方式がん疼痛治療法は、鎮痛薬を主軸とする治療法ですので、どの診療科の医師でも使えるし、どこにいる患者さんにも使うことができ、しかも非常に高率に有効です。ただし、次の5つの基本原則を守らなければ、望ましい成果が得られません。
1)経口的に(by mouth)
痛みの原因がなくならない限り痛みが続くのが普通ですから、鎮痛薬の使用は長期化します。そのためできる限り簡便で患者さんが他人の手を借りずに一人でできる方法、つまり内服が最適で、患者さんの自立を助けます。薬を内服できないとき、あるいは消化管で薬が吸収できない場合にのみ坐剤や貼付薬(はり薬)、注射(持続皮下注入法という方法)を使います。フェンタニルの貼り薬が簡便なように思えますが、実際にはそう簡便ではない点、例えば用量調整が円滑に行えないという難点がありますので、内服と同列には扱えません。
2)除痛ラダーにそって効力の順に(by the ladder)
痛みの強さに応じた鎮痛効力の薬を選びます。痛みが強ければ鎮痛効力の強い薬を使うという単純な方針です。軽い痛みなら非オピオイド系と呼ばれる効果の小さい薬で済みますが、痛みが中程度以上に強いときには、リン酸コデイン、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルなどのオピオイド鎮痛薬を使います。このような薬の選び方を示したWHO三段階除痛ラダー(階段図)という世界共通の基準があります。
3)痛みが消える個別的な量で(for the individual)
同じ薬であっても痛みを消すのに必要な量が一人ひとりの患者さんで違いますので、少ない量から始めて3割増し5割増しと量を増やしていくと、ある量で痛みが消えます。その量がその人にとっての適量ないしは個別的な量です。この適量の薬を副作用予防策の併用のもとで繰り返し服用していくのです。
4)時刻を決めて規則正しく(by the clock)
薬が体内に入っても一定時間たつと薬の効果が切れてしまうので、切れる1時間前に次の分の薬を飲むようにと服用時刻を決めるのです。万一、次回服用時刻が来る前に痛みが再発してくるようなことがあったら、一定の基準で決めておいた臨時追加量を服用し、次回時刻が来たら休薬することなく次回分を内服します。
5)そのうえで細かい配慮を(Attention to details)
どの薬にも副作用がありますので副作用予防策を併用すること、服薬法をきちんと指導すること、患者さんの心の状態に配慮すること、などです。
推奨されている治療薬
痛み止めの薬は大きく分けて非オピオイドといって痛い部位に作用して痛みを和らげる薬とオピオイドという薬があり、非オピオイドは頭痛や生理痛など比較的軽い痛みにしか効かない薬で、もし十分に効かなかったら一段強い薬であるオピオイドに切り替えます。オピオイドには、咳止めに使われることの多い麻薬の一種のコデイン、それよりいっそう鎮痛効力の大きいモルヒネ、オキシコドン、フェンタニルなどがあります。
オピオイドとは薬学用語で、人間の痛みを感じたり伝えたりする神経組織にあるオピオイド受容体に結合して痛みを和らげる薬の総称です。人間の身体はオピオイド様物質を自分で作っています。これを内因性オピオイドと呼びます。それが結合する場所がオピオイド受容体です。ジョギングをしたあと爽快感があるのは内因性オピオイドの産生によるといわれています。そういうものが何種類か私たちの身体の中で働いていますが、少量しか作らないので強い痛みを消すまでには至りません。その足りないところを薬で補うのだと考えてください。
モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルなど日本で使える効力の大きい鎮痛薬を薬学上では強オピオイドと呼び、その多くが法律上は麻薬に指定されています。このうちフェンタニルは口から飲んだのでは効かないので注射か貼り薬でしか使えませんし、貼り薬は簡単なようにみえますが、内服可能なのに貼り薬に切り替えるべきではありません。オピオイドの多くは痛みを和らげる量よりも少ない量で便秘や吐き気を起こしますから、吐き気止めの薬と便を出やすくする薬(緩下薬)を併用します。オピオイドが多すぎる量となると眠気や呼吸抑制を起こしたりすることになります。それゆえ痛みが消えて眠気が出ない範囲の量へと調整しながら適切な量を求めて使っていきます。
非オピオイド鎮痛薬とオピオイド鎮痛薬は作用の仕組みが違うので両方を併用するよう推奨されています。しかし2つのオピオイドを同時に使うことは無意味であると分かっていますので、2つのオピオイドを同時に使うことは例外的な場合にしか行いません。
また、オピオイドの中の有用な薬が法律により麻薬に指定されているのは、健常人が繰り返し使用すると麻薬中毒者(これも法律的な用語で、医学では薬物依存者と呼びます)を作るからです。しかし痛みのある患者さんに麻薬指定の鎮痛薬を繰り返し使っても麻薬中毒者になることがありません。起こらないとは不思議だと思われるでしょうが、痛みが続いている生体内では一定の変化が神経系に起こるため、依存症が起こりにくくなる仕組みが働くようになることを星薬科大学の鈴木勉教授によって解明されました。詳しい説明は省きますが、依存症を心配せずに長期間にわたり麻薬指定の鎮痛薬を痛み止めとしての使用法の基本原則を守って使う限り、薬物依存症を作る心配がないことが科学的に裏づけられたのです。
患者さんは「痛い、痛い」と言い続けること
日本ではがんの痛みに使う鎮痛薬製剤が使え、厚生労働省と日本医師会が共同編集した治療法のマニュアルに加えて、いくつものすぐれた参考図書がありますので、医師、薬剤師、看護師にとり、がんの痛み治療法を容易に学べますし、患者さん自身が自分でどう痛み治療と取り組むとよいか、医師にどう意見を伝えるとよいかを解説した市民向けの本も出版されています。
痛み治療には患者さんにも役割があります。痛みが発生したらその治療が始まるまで痛い痛いと訴え続け、痛み治療の開始を求めることが第一の役割であり権利でもあります。医師から治療の説明を受け、それを拒否する権利もありますが、同意した治療には主治医の指示を守っていくべきです。そうしながら痛みが消えるまで痛い痛いと繰り返し言うことです。痛いと言わないと、医師は痛くなくなったと考えてしまいますから、痛みがあるなら少しも我慢することなく何回でも痛いと言うのは患者さんの重要な役割です。
主治医だけでなく看護師、薬剤師にも痛いと伝えるべきです。なお、モルヒネなどの十分量を使わないために除去されていない痛みなのに、安易に鎮静(薬で眠らせてしまうこと)を実施することは、推奨されていません。
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